昭和維新と日本国憲法②

226 Hi no Maru

陸軍の2.26事件

陸軍でも第一次世界大戦後、海軍同様軍縮が行われた。
加藤高明内閣において陸相を務めた宇垣一成
予算算出という名目で地上兵力から4個師団約9万人を削減したが、
その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、
歩兵に軽機関銃・重機関銃・曲射砲を装備するなど
軍の近代化を推し進めた。(宇垣軍縮)
宇垣は観戦武官として第一次世界大戦を目の当たりにして
総力戦に対する日本の遅れを痛感していた。

Kazushige Ugaki 2
軍縮を進めた宇垣一成

一方、シベリア出兵時にシベリア派遣軍参謀だった荒木貞夫
革命ロシアの混乱・後進性と同時に
赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。
荒木はソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、
シベリア周辺から撃退して、
ここを日本の支配下に置くべきであるという思想を持っていた。

Araki Sadao
皇道派のシンボルだった荒木貞夫

犬養内閣で陸相となった荒木は陸軍を掌握し
思想の近い人物を要職に招き、
反対する者は左遷するという露骨な人事を行った事で
陸軍内部で軍拡路線で天皇親政を目指す「皇道派」が形成され、
宇垣路線を引き継ぎ合法的に防衛国家を目指す「統制派」
激しく対立する派閥構造が生まれた。

当時の陸軍は貧しい農家の出が多く、
皇道派の青年将校たちは
農村の娘を身売りに出さなければならない経済状況を憂いていた。
そんな中で財閥や一部政治家ら特権階級に対する憎悪が高まり、
「尊皇討奸」を合言葉に明治維新の精神に戻り、
天皇親政を目指す2.26事件を引き起こした。

Rebel troops in February 26 Incident

この事件は5.15事件と違い
陸軍皇道派が積極的に関わったクーデターであり、
荒木と並ぶ皇道派の大物、真崎甚三郎は海軍艦隊派の加藤寛治とも親しく
事件発生の朝、昭和天皇の弟でもある伏見宮と三人で協議を行うなど、
昭和維新実現のため背後で根回しがされており、作戦はほぼ成功していたが、
海軍大将の岡田啓介総理が襲撃を生き延びており、
肝心の昭和天皇からは逆賊であるとして反乱軍の烙印を押され、
青年将校に同情的だった伏見宮も天皇の叱責を受け以後鎮圧に働き、
クーデター後の首相ポストと見なされ、
青年将校が慕っていた真崎も動かなかったため、
青年将校たちは行動目的を失い、下士官兵を原隊に戻し投降した。
もし、クーデタが成功していたら
天皇を頂点としながら国家社会主義のナチスドイツのような
ファシズム体制になっていた可能性が高い。

Masaki Jinzaburo
真崎甚三郎の裏切りに青年将校は落胆した。

青年将校たちの理論的指導者とされたのが、思想家の北一輝である。
明治憲法の天皇制に反対した社会主義者であったが、
彼も信仰深い日蓮主義者だった。

Kita Ikki
日蓮主義の思想家北一輝

北は大本教の出口王仁三郎にクーデタの資金提供を呼びかけたこともあり、
左翼的革命に対抗するため、宗教の垣根を越えて右翼的国家改造を主張した。
国家社会主義を謳う北の思想に貧しい青年将校たちは刺激されたのである。

5.15の首謀者が比較的軽い刑罰だったため処分も楽観視されていたが、
関係者のほとんどが死刑という厳しいもので、
事件に大きく関与した大川周明とは対照的に
北一輝は事件に直接関与してないにも関わらず、
民間人でありながら軍法会議にかけられ処刑された。
一方、真崎甚三郎は事件の黒幕と見なされ、関与を疑われたが無罪となった。
この事件により皇道派は陸軍の中心から追放され、
東条英機統制派の主導のもと、対米戦争に突き進んでいく。

当時、皇道派は逆賊として厳しい非難にあったが
戦後、昭和天皇は統制派にたぶらかされたとして、
討伐を「若気のいたり」と反省しており、
真崎の長男を自身の英語通訳に付かせている。
また当時、侍従長だった鈴木貫太郎など
戦争を終結させたのは奇しくも2.26事件を生き延びた人々であった。

日本改造法案大綱と日本国憲法

北一輝は左翼的革命に対抗して
右翼的国家主義的国家改造をやることが必要と考えており
大日本帝国憲法下の「天皇の国民」では無く、
国民の天皇」であるべきとし、
天皇と国民一体の民主主義を実現するべく、
その障害となる特権的官僚閥や軍閥を追放し、
天皇に指導された国民によるクーデターを訴えた。

皇道派のバイブルであった日本改造法案大綱では
天皇により3年間憲法を停止し、両院を解散、戒厳令をしき、
成人男子に普通選挙権を与え、議会と内閣を設置。
華族制度と貴族院の廃止を掲げた。

経済に関しては莫大な富の過度な集中を禁じ、
主要産業については国家が適切な調整を行い、
全ての者に私有財産権を保障するなど、
私有財産に一定の上限を設け、
社会主義と資本主義の折衷的な政策を打ち出した。

出自や家庭環境にかかわらず全児童に普通教育を与え、
利潤配分と土地配分とによって労働者・農民の自立を半ば可能とし、
家のない者、貧民、不具廃病者への援助を提唱している。
また、労働者の権利保障・育成、労働省の設置など
国民教育の権利と人権保障の強化を強調している。

当時としてかなり急進的な内容だったが、
戦後、GHQ主導で作られた日本国憲法
象徴天皇の実現や華族制度と貴族院の廃止、
国民主権や言論の自由、基本的人権の保証など多くの部分で一致する。
昭和維新の志士たちの多くは抹殺されたが、
戦後民主主義の時代になってその理想が実現したというのは実に興味深い。

Memorial February 26.jpg
処刑が執行された旧東京陸軍刑務所敷地跡に建つ二・二六事件慰霊碑
(出典:Goki)

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